10月3日 木曜日
晴れ 日差し戻る そののち曇り
突然だが栗が好きである。
芋栗なんきんなどと言われるけれど、なかでも栗は別格だと思う。
どこらへんが別格なのかといわれると、まず秋の非常に短い期間しか売っていない。
そして高い。
そして調理が面倒である。
たかがゆでるのに4、50分もかかるって、芋となんきんを見習ってもらいたい。
生栗の皮をむくなんて、生命の危機といってもいい。
また、甘さの追求にやや淡白ともいえる態度。(注・芋なんきん比)
さらに当たり外れの多い不確実性。
芋なんきんに虫なんかいたら即、即返品である。
さらに言わせてもらえば、芋なんきんが煮物にお菓子にとご家庭のオールマイティー要員なのにたいし、栗の用途はたいへん狭すぎやしないか。
茹で栗。
栗ご飯。
栗ご飯のこの非日常感。たとえば「芋ご飯」と比べてみてどうか。
あらゆる意味で別格な栗の存在がこれでおわかりいただけただろうか。
ああこのツンデレ感。一生付いていきます。
たねやのくりきんとん
桜井甘精堂の栗かのこ
まちだの関白
以前ともすけで食べた栗とコリアンダーのサラダも美味しかった。
家で栗を食べるときは、よけいなことはしない。
茹でて、皮を剥いてもくもくと食べる。
親指の爪の間が痛くなって剥きにくくなったら、包丁で半分に割ってスプーンですくって食べる。
オットは栗が好きじゃないので、私だけが私のためだけに買って私だけが食べる。
皮を剥くときは、まず前歯をつかって栗のおしりの部分に亀裂を生じせしめる。
この際、往々にして中が黒く変色していたり、虫がひそんでいる場合があるので、皮を破ったか破らないかの際で素早く歯を抜き、内部の液を口に入れないというのが肝要で、そののち左親指を用いて、先に生じた亀裂を拡げつつ目視で確認する。この際嗅覚を持ってしてもまた確認怠らざるべしである。
妹は、栗は好きだが剥くのが面倒だと言って祖父に剥かせていた。栗好きを標榜するにあるまじき態度といわねばならない。
私の母のふるさとは熊本の小さな村落で、数年ほど前までは毎年実家の山から段ボールいっぱいの栗が送られてきたものだった。
なんという種類なのだろうか、ここいらの店では見ないような大粒の栗で、甘さの当たり外れは大きかったが、ぽこぽことした食感がおいしかった。
私たち姉妹が子どもの頃は、小学校の運動会の前に合わせて送ってきてくれるのが常で、校庭で家族と食べるお昼の最後は、ビニール袋に入った茹で栗が定番だった。茹でたのをそのまま入れてくるのでビニール袋のなかで汗をかいて、やや水っぽくなった栗。その匂いと舌触り。
(ところで、いまでも生徒は運動会のお昼は家族のところで食べるのだろうか。)
そんな毎年の楽しみは数年前にぶっつりと途切れた。
なぜかというと、その栗の木がある地帯が、なんとうちの土地でなかったことが発覚したからである。
あるとき祖父がどういうわけか思い立って測量したところ、思っていた境界の線が本当はだいぶずれていて、件の栗の木がじつはお隣さん(?)の敷地内であったというわけらしい。
その年以降ぱったりと栗は送られてこなくなった。
実際のところ、祖父が勝手に測って勝手に突き止めたわけであるから、お隣さんは今もその土地が自分のものだと知らないままなのではないかということだった。
つまり栗の木はまだそこにある。今年も立派な実を付ける。お隣さんは収穫しない。
でも知ってしまった以上、もう取れないと…。
口を極めてじいさんを罵りたいが、数年前に死んだのでもう言えない。
測量した理由というのも、どうもこの山処分したらいくらにもなるかな、と色気を出したかららしいが、結果、測量費とトントンの値段だったと…。
いや、色気なんかじゃなく、じいさんは相続で何がしか残したい気持ちがあったのだろう。
毎年秋になると、砥用の懐かしい山の中にでっかい実をつける栗の木のことを考える。
おなかをすかせた熊みたいに。
そういえば、「芋栗なんきん」の中で栗だけが木になる実だ。
ちいさい頃に好きだった本。『おやまのこぐま』。
くりきんとんを食べすぎておなかがいたくなってえーんえーんと泣くこぐまの話。
お皿にのった黄金色のくりきんとんが目の前に次々と並ぶ場面は、私のなかでのベスト・オブ・おいしい本だ。
ひろすけ童話だったのか。
『おやまのこぐま』
小学館の創作童話シリーズ
浜田 廣介/さく 西村 達馬/え
小学館 1980/01
ISBN 978-4092430051