4月11日 木曜日
晴れときどき雨 気温低
きつねの嫁入りのようなお天気。
エリナー・ファージョンという人がいる。
イギリスの児童文学作家で、おもに1930〜40年代、「ムギと王さま」「年とったばあやのお話かご」「イタリアののぞきめがね」など多くの作品を書いた。
昨日はあのあと、自宅でちいさな子どものアトリエをひらいている妹によばれ、一人息子の遊び相手となりに行った。
ところが当のご本人はすっかりぐうぐう寝ていて、役目がない。
夜ごはんのミートソースを簡単に作ってしまうと、あとはしごとといったら「そこにいること」くらいしかなくなってしまった。
そこでソファーにすわって、部屋にあったファージョンの「イタリアののぞきめがね」を読むことにした。
アーティゾーニの挿絵が表紙になっている、岩波のファージョン作品集旧版。
市の図書館のリサイクルシールが貼ってある。
ファージョンの短篇集は、こういうちょっとした静かな時間に読むのにぴったりだ。
ひとつひとつがほどよく短くて、ていねいで、親しさとおかしみがこもっている。
私の知らない外国の、昔のお話なのに、隣で誰かが話してくれているみたいにぴったりと寄り添ってくる。
妹の息子はまだ2歳だが、もうすこし大きくなったら、寝る前の「おはなしのじかん」に読んであげてほしい。
それにしても、おかあさんはほんとうに忙しい。
こういうわずかな時間、私なんかはこうして呑気に本など読んでいるけれど、おかあさんだったらこのすきに何を済ませてしまおうと大忙しに違いない。
子育てのいちばん大変なところは、息抜きや気分転換がそうそうできないところだ。
仕事だったら、どんなに忙しくても、家に帰ればひとりの時間があるし、お風呂にだってゆっくり入れる。疲れたなと思えば30分横になる自由もある。
会社や仕事を物理的に切りはなして自分を保つことは、得手不得手があってもやろうと思えばできるけれど、子育てはそうはいかない。
両親だけで子育てしていれば24時間年中無休、祖父母の手助けがあったらあったで、近しいだけに人間関係にも気を使う。
つらくてどうしようもなくなったときに、ばたんとドアを閉めてしまえない。
子どもを持たない私は、そういうことができそうもない。
おかあさんが、子育てが大変な時期にどんなに自分勝手に見えても、そこにはちゃんと理由と道理があるんだな。
おりこうに人のことばかりを慮っていては、自分も子どもも参ってしまう。
しばらくして目がさめた Iちゃんは、むくっと起き上がるなりトランプで遊ぶと宣言した。
そのあと一緒に読もうと持ってきた絵本は、安野光雅の「かずのほん」と「えかきさんととり」。
激渋な2歳。
妹が、「子どもがいるおかあさんとだと「誰かのおかあさん」って感じになるけど、やっぱり今日は「おんなのひと」と一緒にいるって態度になっている」と言う。
思えば、姉の子どもたちも私を「こっちがわ」だと思っているふしがある。
わたしは、子どもにはときどき「親じゃないおとな」が必要だと思う。だから自分がそういう存在になれたらいいなと思う。
とかいいながら要は、無責任でありたいだけである。
『イタリアののぞきめがね』
エリナー・ファージョン/著
エドワード・アーディゾーニ/挿絵
石井桃子/訳
岩波書店 1976年(旧版)